『長いお別れ』 |
アメリカでは、認知症を「Long Good-bye」というそうだ。アルツハイマー病であれば、長い時間をかけて、徐々に認知機能を失っていく。その過程で、自ら周囲の人々に別れをつげることもできるだろう。
本書の主人公は、ひとりの認知症患者――かつて中学校校長までつとめ、退任後は地域の図書館長を経験した男性。夫を献身的に介護する妻の感動的な物語でもある。本書は、小説の構成をとっているが、ほとんど著者の実体験をベースにしているようだ。著者には、認知症に対する恐怖感――最後には人間的な尊厳すら失うのではないかという――の認識を変えようという意気込みがあるのだろうか。
主人公が、認知症との診断を受けたのは、10年ほど前。友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのがきっかけである。初期のアルツハイマー型認知症だった。認知症の夫をできれば最後まで自宅で看たいというのが、妻の希望だったが、彼女自身も、網膜剥離で緊急手術と入院を余儀なくされるという厳しい状況もあった。
認知症を発症してから、最初の5年間は、さほどの進行をもたらさなかったように見えた。妻によれば、「知らない人が相手だと、カッコつけるの。上手に調子合わせるから、わかってないことがバレなかったりするの」と。また、現役時代の教師経験から、漢字テストには、人並み外れた好成績だった。およそすべての難解漢字を読み解いた。屠蘇、熨斗、御神酒、……等々。7年ほどをすぎると、人の目をごまかすわけにもいかなくなる。将棋クラブや句会にもとうとう行かなくなったそうだ。
晩年には症状がかなり急激に進む。意味のある言葉が出てくることが少なくなってくる。車いすを使うことが多くなった。噛んで飲み下す能力に問題があるらしく、形のあるものがなかなか食べられなくなった。ようやく、メアリーというアルツハイマー治療の新薬を、アメリカ経由で手に入れる。この新薬は、なにがしかを脳に働きかけているには違いなかった。だが残念なことに、話す意欲には働きかけても、失われた語彙を蘇らせることはできなかった。
◆『長いお別れ』中島京子、文藝春秋、2015/5
